南部のお話

矢の橋に散った村雨丸

むかしむかし、藤ヶ谷城のお殿様である相馬胤吉(そうまたねよし)が小田原の戦いに出陣した際、海東八郎延隆(かいとうはちろうのぶたか)という武将といさかいになり切ってしまいました。
ところが相馬胤吉に討ち取られた八郎には14歳になる子がいたのです。
その名は「村雨丸延乗(むらさめまるのぶのり)」。
村雨丸は父のかたきうちのため旅に出ました。

胤吉を追いかけ「芦椛(ろか)橋(その後の矢の橋)」までたどり着いたとき、村雨丸は重い病にかかっていました。
村雨丸は、守り神の如意輪観音の像をまくらもとにおき、父のかたきうちを願いつづけると、観音さまが夢の中にあらわれ、「腹の中に私を納めた聖徳太子像を作ってまつりなさい。そうすれば願いはかなうだろう。」また「人々に拝ませなさい、商売の神となりましょう。」とつげました。
おつげにしたがい、残りの気力をふりしぼり太子像を作りあげて気を失ってしまいました。
そこに、武士の一団がとおりかかり、倒れた若者に武将が声をかけました。
声をかけた武将はなんと、村雨丸が捜し求めていた胤吉だったのです。
胤吉は村雨丸からこれまでの事情を聞くと、「我こそ御身の父御を討った胤吉だ。一太刀討って父に手向けよ。」と言いました。
これを聞いた村雨丸は目に涙を浮かべ「私の願いは神に通じました。そして今あなたのお言葉を聞き、恨みも消えました。
私の命ももうこれまでです。」と笑って橋の下の金山落しに飛び込んでしまったのです。
それを見た胤吉は「我も同道せん」といって川に飛び込もうとしましたが家来の者に止められました。村雨丸が遺した守り袋には「平貞盛末葉」と書かれていました。

中台(現白井市)に移った胤吉は僧になり、「善真」と名を改め、村雨丸のために墓を建て聖徳太子像をまつり、海東父子に法華経を二部、書写奉納しました。
その場所が、「村雨山」「二部山」(白井市西白井)と伝わっています。
その後、里人たちが仮のお堂を建てて聖徳太子像を安置しましたが、やがて白井市富塚に移転し、1593年6月に「急雨山延乗院」となり、今は「急雨山圓乗院西輪寺」となっています。

舞台となった矢の橋(旧芦椛橋)は暗渠(あんきょ)となった金山落しの上の鮮魚街道のところです。尚、最後の矢の橋に使われた1737年製の橋梁材(石橋)が柏市役所沼南庁舎前に飾られています。

このお話しの舞台


参考資料