北部のお話

城の越し

 大室山(おおむろやま)のはずれ、利根川に近い沼地とたんぼの中に、おわんをかぶせたような大きな丘がありました。土地のひとは、それはだれかが造ったものか、自然にできたものかわかりませんでした。むかしから、城(じょう)の越しまたは城(じょう)の腰といっておりました。

 丘は、松と杉におおわれ、山主(やまぬし)がかまどで燃やすたきぎを取りに行く以外は、だれも近寄ることはありませんでした。

「おい。あの山にこめら<子どもたち>だけで行くでねえど。狐やたぬきがいっぱいいっからな。」

「大きな山ダニがいて、吸いつかれっと血がとまんねえぞ。」

「いつか茂作(もさく)どんの馬は、城(じょう)の越しで山ビルに血をすわれて死んだんだと。おっかねえことだ。」

 いろいろな話を、子どもたちは聞かされておりました。また、こんな話をしてくれる老人もいました。

 大むかし、まだこのあたりがすべて沼地だったころ、おわんをかぶせたような丘は、遠く常陸(ひたち)の国<今の茨城県>からもよく見えました。常陸(ひたち)の殿さまは、緑にかこまれた美しい丘に、小さい城を造り娘を住まわせたということです。やがていくさがおこり、城は敵の手に落ちました。真っ赤なほのおにつつまれた城を遠く見ながら、常陸(ひたち)の殿さまはどうにもならなかったということです。

「雨の降る夜、城(じょう)の越しに火の玉が飛ぶだろう。あれは、火の中で死んだお姫さまのたませいなんだ。」

 さて、城(じょう)の越しの近くのたんぼは、利根川の洪水のため、むかしから何回も水害にあいました。その対策として、明治から大正にかけて、堤防を築くことになりました。城(じょう)の越しはけずり取られ、土は堤防に運ばれたのです。その時、土の中からいろいろなものが出てきました。直刀(ちょくとう)、勾玉(まがたま)、埴輪(はにわ)などです。城(じょう)の越しは、古い、古い時代の墳丘 (ふんきゅう)でもあったのです。丘の土はすべて運び去られ、今は射撃場となっています。

このお話しの舞台


参考資料