北部のお話

うなぎ道・大杉みち

「この道は、うなぎ道っていうんだよ」

 松ヶ崎から高田(たかだ)へ行く道を歩きながら、松田のおじいさんは、孫のるみにいいました。るみは四年生です。

「うなぎのように曲がりくねっているからなの?」

「いや。うなぎの荷を乗せた馬が通っていった道なんだよ。それにこの道は大杉みちとも言われているんだ。」

 むかしから、利根川や手賀沼のうなぎはたいへんおいしいので、江戸の人に喜ばれていました。川や沼でとれたうなぎを、生きたまま、早く江戸に運ぶのに利用されたのが、うなぎ道です。

 水揚げされた川のうなぎは布施(ふせ)から、沼のうなぎは戸張(とばり)から、高田(たかだ)を通って加村河岸(かむらがし)まで馬で運ばれそこから、船で江戸川を下ったのです。途中、高田(たかだ)の水切り場で水をとりかえました。布施(ふせ)から一時間、少しつかれたうなぎは、大地からわき出る清流にひたって、息をふきかえしたということです。

 うなぎばかりではありません。布施(ふせ)から加村(かむら)までの、つけ越しの荷駄(にだ)は、ひっきりなしにこの道を通ったそうです。

 むかし、むかし、あば<茨城県稲敷市桜川地区>の大杉さまのおみこしが、たかの<埼玉県幸手市>まで、十二年目ごとに出向いていったのもこの道です。供の者にかつがれた大杉さまは、あばから川を渡り、高田(たかだ)を通りまた川を渡ってたかのまで行きました。帰りは、高田(たかだ)へおとまりになるのも、十二年目ごとのしきたりでした。

 ある年のことです。たかのからの帰り、大杉さまは高田(たかだ)のお仮屋(かりや)にお入りになりました。お仮屋(かりや)のうしろは、熊野神社の森につづき、前は広々とした水田です。

「ことしも豊作まちがいなしだ。大杉さまがおとまりになったもんな。」

「見ろ、あの稲を。大杉さまはありがていよ。」

「大杉さまもお疲れだろう。うんと食べてくんろ。」

 高田(たかだ)村の人々は、大杉さまのお仮屋(かりや)に集まって、野菜・山菜・くだものなど、村でとれたものを、いっぱいお供えしました。つきたての餅や新しいお酒を供える人もいました。

 朝になりました。いよいよあばへ帰る日です。供のものたちは、おみこしをかつごうとしましたが、地面へぴったりとはりついたように動きません。見送りにきた村人も手伝いましたが、びくともしません。みんなただおろおろするばかりでした。

 その時、どこからかきれいな声が聞こえてきました。

「私は大杉さまの娘でございます。いつも私をあたたかく迎えてくれてありがとう。私は高田(たかだ)村がたいへん気に入りました。これより、この地にとどまることにいたします。」

 村人たちの間から「ワァッ」と喚声があがりましたが、やがて人々は、ヘタヘタと地面に座りこんで、大杉さまをおがみました。

「ありがてぇ。高田(たかだ)村に大杉さまは毎日おられるのだ。」

「高田(たかだ)はもう、いつも豊作だど。」

「疫病神もよりつかめえ。」

 村人たちは、りっぱなお宮に大杉さまをまつり、夏になると、舟の形をしたおみこしを、かつぎまわったそうです。

「女の神さまだから、がっち、がっちともまねえで、すうい、すういとかついだもんだ。」

 大杉のおばあちゃんは、そう言っていました。

 その後、お宮は火事になり、おみこしも焼けました。いまはお宮だけが熊野神社の境内にあります。すうい、すういとねりあるく祭礼はなくなりましたが、七月の祭日には、年番の人たちが、色紙でつくった花と木版ずりのお札を家々にくばって歩きます。

 熊野神社の下の方には、夏の日に白く乾いた道が長くつづいていました。るみは、いつかうなぎ道、大杉みちを歩いてみようと思いました。

このお話しの舞台


参考資料