中部のお話

食べかけ雑煮

「船がきたぞう。」

「船がきたぞう。」

 元旦のお祝いのお膳をかこんでいた人達は、その声を聞くと、おとそでほんのりそまった顔を、いっせいに主人の方にむけました。床の間の前できげんよく雑煮(ぞうに)を食べていた主人が、

「それ、荷あげだ、急げ。」

といって、半天を着て、前かけをかけると、家の者達もつぎつぎと身じたくをととのえて、主人におくれまいとたちあがりました。皆のでかけてしまったあとには、食べかけのお膳がそのまま残りました。

 むかしといっても、ほんの少し前まで、手賀沼は、まわりの村との重要な河川交通の場でした。柏の戸張(とばり)には、船着き場があって、木下(きおろし)や手賀あたりから、米がはこばれてきました。

 そのころの船は、船二はいを棒でつなぎ、一ぱいにしたもので、印半天(しるしばんてん)を着た二人の船頭がこいでいました。一ぱいの船に十俵位の米をつけて、柏に来る時は東風(ひがしかぜ)を、帰りには西風(にしかぜ)というぐあいに、風も利用しました。

 戸張(とばり)の船着き場は、船が遠くに見えると、急に活気づきました。馬を持っている家は、みな馬をひいてかけつけました。馬がいない家からは、体の強そうな男が走り出てきました。船着き場で仕事をさせてもらい、駄賃(だちん)をもらうためです。

 船がつくと、男達は、軽がると米俵を肩にのせ、ならんで待っている馬の背につけました。船着き場では、大きな声が、あちらこちらから聞こえてきました。馬のいななきも聞こえました。

 俵をつけた馬は、柏までその荷を運び駄賃をもらいました。とちゅう急な坂があり、馬はあらい息をはき、坂をのぼるのをいやがりました。すると、むちが入れられ、馬はやっとのことで坂をのぼりきるのでした。そこで、人びとは、この坂を駄賃坂といいこの坂をあがったら、駄賃をもらったも同じだと言いました。

 こうして、つぎつぎと米は柏の倉に運びこまれました。夢中で働いていた人びとは、仕事が終わって、ほっと息をつくと、顔を見合わせて、

「腹がへったなあ、そうだ、雑煮(ぞうに)が食べかけだったわい。」

といって、笑いあいました。

 そして、再びお膳の前にすわりなおし、今日の仕事のことを口ぐちに話しあいながら、何回も何回も、おかわりするのでした。

 元旦のお雑煮(ぞうに)を、主人が食べかけにするしきたりは、柏のある家には今でも残っているそうです。

このお話しの舞台


参考資料